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豊川市(歴史)概要: 古くは三河国の中心地だった地域で、8世紀中頃には三河国府が設置され天平13年(741)には三河国分寺が創建、それと前後して三河国分尼寺が創建しています。平安時代には三河守であった大江定基の孫、大江定厳が地頭となり豊川城を築き当地の支配を行っています。交通の要衝でもあった為、鎌倉時代に入ると鎌倉街道の宿場町、豊川宿が設置され「海道記」、「東関紀行」などの書物に記載されています。室町時代に入ると一色氏、波多野氏が支配し、戦国時代には牧野氏が享禄2年(1529)に牛久保城を築き領主として地位を確立します。本家筋の牧野信成は松平元康(後の徳川家康)に敵対した為、滅ぼされたものの、牛久保系の牧野氏は早くから松平家に属したとみられ、功治2年(1556)、成勝の跡を継いだ貞成が今川義元により追放されますが永禄9年(1566)、牧野成定が徳川家康の力を借り牛久保城主に復権しています。成定の跡を継いだ康成も家康に忠誠を尽くし、天正18年(1590)家康の関東移封に伴い大胡城(群馬県前橋市)2万石で移封となり、代わって池田輝政の家臣荒尾成久が牛久保城に入ります。輝政は関が原の戦いで東軍に属し、岐阜城(岐阜県岐阜市)攻略の功により姫路城(兵庫県姫路市)に移されると、牛久保周辺は天領となり、城の一部が代官所として利用されますが元禄13年(1700)、その代官所も廃されました。又、現在の豊川市の中心部付近は豊川稲荷の門前町として古くから発展しています。江戸時代に入り東海道が開削されると豊川市では御油宿と赤坂宿が整備され、特に赤坂宿では代官陣屋が設けられ周辺の天領を統治する中心地として栄えました。
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豊川市 |
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豊川市:観光・見所 |
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