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岡崎市(歴史)概要: 岡崎市は古くから西三河の中心地だった地域で、7世紀には当時この地を支配した物部一族が北野廃寺を建立したと伝えられています。北野廃寺は西三河最古級の古代寺院跡で東西126.5m、南北140mの境内には塔、金堂、講堂、回廊などの遺構が発見され四天王寺式伽藍配置が確認、当地域の中心的な寺院だったと推測されています。平安時代に入ると伊勢神宮の荘園となり藤原李兼が荘官として当地の開発に尽力しています。承久の乱の後、三河守護に足利義氏が任命されると矢作東宿に守護所を構え事実上の三河国の中心地となりました。室町時代に入ると当時の三河国守護仁木義長の守護代西郷稠頼が当地の地理的優位性を感じ康正元年(1455)に岡崎城を築城します。その後は西郷氏による支配が続きますが、戦国時代に入ると松平氏が台頭し大永4年(1524)には松平清康が岡崎城を摂取し三河国統一を果たします。享禄4年(1531)、清康が尾張国の守山にて家臣阿部正豊により刺殺されると跡を継いだ広忠は年少だった事もあり次第に今川家に従属するようになり天文11年(1542)に竹千代(後の徳川家康)が岡崎城で生まれるも今川家に人質として差し出しています。天文18年(1549)、広忠が岡崎城で家臣により殺害されると、岡崎城は今川家に摂取され城代が支配しました。。永禄3年(1560)、桶狭間の戦いで今川義元が討死すると松平元康(後の徳川家康)は岡崎城を摂取し織田信長に組するようになります。家康は岡崎城を居城として三河を統一しさらに遠江まで侵攻した為、元亀元年(1570)居城を浜松城(静岡県浜松市)に移し、岡崎城には嫡男である松平信康が配されます。信康が謀反の疑いで自刃すると徳川家家臣が城代を歴任し、天正18年(1590)に家康が関東に移封になると豊臣家家臣田中吉政が5万石で入封します。吉政は関東の家康を封じる拠点として岡崎城を大改修し城下町も整備、東海道を岡崎城下に引き込むなど経済の育成にも尽力しています。慶長7年(1602)、本多康重が上野国白井城(群馬県渋川市白井)から5万石で入封すると岡崎藩を立藩します。正保2年(1645)、4代利長が横須賀藩(静岡県掛川市大須賀町)に移封になると、吉田藩(愛知県豊橋市)から水野忠善が5万石で入封。宝暦12年(1762)、7代忠仁が唐津藩(佐賀県唐津市)移封になると古河藩(茨城県古河市)から松平康福が5万4千石で入封。明和6年(1769)、康福が浜田藩(島根県浜田市)に移封になると、浜田藩から本多忠粛が5万石で入封。以来、本多家が岡崎藩主を7代世襲し明治維新を迎えています。
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岡崎市 |
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岡崎市:観光・見所 |
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