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豊田市(歴史)概要: 豊田市は古くから開けていた地域で旧石器時代から弥生時代にかけて数多くの遺跡が点在し当時から生活するにはよい環境だったと思われます。古墳時代に入ると豊田大塚古墳(円墳:直径約30m、高さ3.5m)や池田1号墳(円墳:直径約19m、高さ約3.5m)などが築造され支配階級が存在しました。奈良時代には仏教文化が伝来し舞木廃寺などが創建され、平安時代には八条院の荘園である高橋荘、高橋新荘(後の足助荘)などが成立しています。鎌倉時代に入ると高橋荘に御家人である中条氏、高橋新荘には浦野氏(足助氏)が配され長くこの地域を支配します。特に、建武の新政時に高橋荘の地頭だった中条秀長は尾張守護に抜擢され猿投神社の庇護や如意寺、長興寺を創建するなど大きな影響力を持ちました。16世紀に入ると中条氏が衰退し天文18年(1549)には駿河の今川義元の侵攻により大きく領地が失われ、永禄元年(1558)にも松平元康との戦いに敗れています。永禄4年(1561)には織田信長の侵攻により居城である金谷城は落城し中条氏は没落しています。慶長19年(1614)、三宅康貞が1万石で入封し挙母藩を立藩、元和5年(1619)、2代康信が伊勢亀山藩へ移封になり挙母藩は一時廃藩となります。寛永13年(1636)に3代康盛が再び挙母藩主に復権、しかし、寛文4年(1664)、4代康勝が田原藩(愛知県田原市)に移封となり陣屋も廃されます。天和元年(1681)、石川藩から本多忠利が1万石で入封、本多家も城主格でなかった為、陣屋をこの地に構え、寛延2年(1749)に3代忠央が相良藩(静岡県牧之原市)に移封になると安中藩(群馬県安中市)から内藤政苗が入封しました。内藤氏は2万石ながら城主格だった為、本格的な城郭が計画され周囲400間、本丸には3重櫓、二ノ丸には2重櫓の石垣などか建設されますが度重なる水害の為、安永8年(1779)、2代学文はこの地での築城を諦め、高台に七州城を築き藩庁を移します。以来、七州城を中心として藩政が行われ7代>内藤文成で明治維新を迎えています。
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豊田市 |
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豊田市:観光・見所 |
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