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田原市(歴史)概要: 田原市は縄文時代の遺跡が豊富な地域で吉胡貝塚では340体の人骨が発見され日本国内でも注視されている遺跡の1つです。伊川津貝塚では叉状研歯のある頭骨や有髯土偶が発見されています。平安時代後期から鎌倉時代に掛けては窯業の一大産地となり大アラコ古窯跡では三河国司である藤原顕長の銘の入った陶片が発見されているだけでなく、大アラコ産の陶器が全国で見つかっています。東大寺瓦窯跡では鎌倉時代に奈良東大寺再建の際に使用された瓦が焼かれ、「東大寺大佛殿瓦」や「大佛殿」などの文字が刻まれた瓦が出土しています。中世に入ると尾張から進出した戸田氏が支配し文明12年(1480)には戸田宗光によって田原城が築かれ、ここを居城として渥美半島を統一し東三河で大きな影響力を持ちました。享禄2年(1529)、一族を統一した松平清康が東三河に侵攻したことで戸田家も松平氏に従うようになりまが清康が守山城で家臣に殺害されると、今川氏の勢力下に入り戸田氏も今川氏に従うようになります。天文16年(1547)、当時の戸田家当主康光が、織田家に寝返り、今川方の人質として駿河に送られる松平竹千代(後の徳川家康)を略奪し織田方に送りると当時の今川家当主義元は激怒し、戸田家討伐の大軍を田原城に送った為、康光は討死し田原城も落城しています。田原城は今川氏の持城となり城代が置かれますが、永禄7年(1564)徳川家康が三河統一の際、本多広孝に命じて田原城を攻め、当時の城代朝比奈元智、岡部輝忠らは自領に引き上げ、広孝が城主となっています。天正18年(1590)、徳川家康が関東へ移封になると当時の城主本多康重は白井城(群馬県渋井市白井)に移され、田原城は池田輝政の家臣伊木忠次が入ります。慶長5年(1600)、関が原の戦いで輝政は東軍に組した為、姫路城(兵庫県姫路市)に加増移封になると、戸田一族である戸田尊次が丸岡城(福井県坂井市)攻略で功があり1万石で入封し田原藩を立藩します。戸田家は3代田原藩主を世襲しましたが、寛文4年(1664)、3代戸田忠昌が富岡藩(熊本県天草郡苓北町富岡)に移封となります。代わって挙母藩(愛知県豊田市)から三宅康勝が1万2千石で入封、三宅家は12代に渡り藩主を世襲し明治維新を迎えています。
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田原市 |
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田原市:観光・見所 |
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