足助町(歴史)概要: 足助町は古くは八条院ワ子内親王の所領で高橋新荘と呼ばれる荘園でした。鎌倉時代に入ると幕府の御家人である浦野重長が荘官として派遣され当地を支配しました。その後、高橋新荘は足助荘と呼ばれるようになりと、重長も足助氏の祖となり足助七城と呼ばれる足助城、臼木ヶ峯城、大観音城、城山城、 成瀬城、黍生城を周辺に築き大きな影響力を持つようになります。
元々が八条院領荘園だった事から朝廷と関係が深く承久の乱では後鳥羽上皇に見方し、鎌倉時代末期には当時の当主足助重範が後醍醐天皇に従い笠置山(京都)篭城軍3千人の総大将として名を馳せました。足助氏が衰退すると鈴木氏が台頭し三河西北部における有力国人として大きな影響力を持つようになり足助には足助鈴木家が支配しました。
大永5年(1525)、松平清康の侵攻により降伏しましたが、その後独立、しかし永禄7年(1564)に松平家康により攻略され以後、松平(徳川)家に従属するようになります。元亀2年(1571)、武田信玄の三河侵攻により飯森山城は落城し、当時の城主重直は家康の元に逃げ延びています。
長篠の戦で武田勝頼が織田、徳川連合軍に敗退すると武田家は急速に衰退し、天正元年(1573)、徳川信康が足助城を攻略し再び鈴木氏が城主として復権します。天文18年(1590)、家康が関東に移封になると鈴木氏も随行します。
天和元年(1681)、本多忠周が三河国加茂郡5千石の領主となり足助に陣屋を構え領内を整備、天和2年(1682)に2千石が加増、さらに天和3年(1683)に社寺奉行として3千石が加増となり、1万石の大名となり足助藩を立藩します。
しかし、貞享4年(1867)には職務怠慢から寺社奉行を罷免され元禄2年(1689)に3千石が減俸となり寄合旗本に降格、以来、足助領は本多家が領主を歴任し明治維新を迎えています。
又、足助は三州街道(伊奈街道)の宿場町として多くの物資が集められ、特に中馬と呼ばれる民間による駄賃馬稼の中継地として飛躍的に発展しました。現在でも当時の町並みが色濃く残り重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
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