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西尾市吉良町(歴史)概要: 承久年間(1219〜22)に三河守護職足利義氏が東条城を築き3男義継に与えました。義継は東条吉良氏の祖となり長くこの地域を支配し、特に室町時代に入ると足利一門として重用され4代貞家は奥州管領に抜擢されるなど大きな影響力を持つようになりました。応仁の乱では山名宗全に味方し西条吉良家と対立状態となり、戦国時代には今川家、松平家などの大きな勢力が隣接していた為、対応に苦心し当時の当主吉良持広は松平家当主清康の妹(徳川家康の大叔母)を娶っています。又、吉良家は今川家に属していた為、桶狭間の戦い以降、織田信長に従った松平元康(徳川家康)と対立し永禄4年(1561)には東条城が攻められ落城、大名家としての東条吉良家は滅亡します。その後、吉田城を任された徳川家家臣の酒井忠次の支配下に入りこの地には松平家忠が領主となり、天正18年(1590)、徳川家康が関東に移封後は豊臣秀吉の家臣池田輝政が東三河の領主となっています。江戸時代に入ると西尾藩、大多喜藩、沼津藩、川越藩などの分知が点在しましたが、中でも吉良家13代義安の子である義定が徳川家とは遠戚で足利一門という名門だったことから高家という格式を得て吉良家を再興し3千石が与えられます。元禄14年(1701)、吉良義央が所謂元禄赤穂事件の当事者となり元禄15年(1702)に赤穂浪士の討ち入りで斬首、吉良家は改易となり当時の当主吉良義周は高島藩(長野県諏訪市)へ配流となりました。
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西尾市吉良町 |
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