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新城市(歴史)概要: 新城市の中世は菅沼氏や奥平氏といった国人領主が割拠していましたが、松平領、今川領、武田領に隣接していた為、絶えず戦乱に巻き込まれその時々で主家を変えていました。戦国時代当初は今川家に属した領主が主でしたが桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると三河を統一した松平元康に従い、武田信玄が三河に侵攻すると次々と信玄に降伏していきました。元亀4年(1573)、信玄が重病により信濃に引き上げると菅沼氏や奥平氏は家康の恭順し再び徳川領になると長篠城には奥平貞能を配し武田方に備えます。天正3年(1575)、武田勝頼2万5千の軍勢が長篠城を急襲し長篠の戦いが開戦、諸説ありますが織田、徳川連合軍は6千、武田軍は1万2千の死傷者を出し、武田軍は自領に撤退しています。戦で大功をあげた奥平貞昌は織田信長の名の一字を賜い信昌に改名、さらに家康の長女亀姫を正室に向えることで重臣としての地位を確立し新たに新城城を築き居城を移しています。家康が関東に移封になると奥平氏は上野国甘楽郡3万石、菅沼氏は上野阿保1万石が与えられ、代わって新城には豊臣秀吉の家臣池田輝政の支配下に入り、城代として片桐半右衛門が配されます。輝政は関が原の戦いで東軍に組した事で姫路城(兵庫県姫路市)に移り、新城には水野分長が1万3千石で入封し新城藩を立藩します。2代藩主水野元綱が安中藩(群馬県安中市)に移封になると新城藩は廃藩となり、菅沼定実が7千石で入封します。菅沼氏は上野阿保から亀山藩(京都府亀山市)4万1千石の大名となっていましたが慶安元年(1648年)に無嗣のまま当時の藩主菅沼定昭が死去した為、かろうじて弟である定実に7千石、定賞に3千石が安堵されました。定実の家系は新城菅沼家と呼ばれ代々交替寄合として新城領を支配し明治維新を迎えています。
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新城市 |
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