大樹寺概要: 大樹寺の創建は、応仁元年(1467)、この地で行われた戦の戦死者の霊を弔う為、松平親忠が塚を築いたのが始まりとされます。文明7年(1475)、鎮めたはずの亡霊が騒ぎ出したことから親忠は改めて勢誉愚底上人を招いて大樹寺を開山しました。
以来、歴代松平家の菩提寺、祈願所として庇護され、天文3年(1534)には松平清康が多宝塔など多くの堂宇を造営し、永禄3年(1560)には桶狭間の戦いで敗れた松平元康(徳川家康)が大樹寺まで退却し先祖の墓前で自刃する刹那、当時の住職登誉上人が「厭離穢土、欣求浄土」と諭し留まられ、僧兵である祖洞が貫木を振り回し、織田軍から元康を守ったと伝えられています。
徳川家康は大樹寺を庇護し寺領を寄進すると共に元和元年には境内に先祖である松平8代の墓を再建しています。元和2年(1616)、家康が死去すると生前遺言として残した「久能山(静岡県静岡市)の埋葬」、「増上寺(東京都港区)の葬儀」、「大樹寺の位牌安置」、「一周忌後、日光(栃木県日光市)の御堂建立と勧請」が施行され大樹寺に位牌が安置されることになりました。
その後も大樹寺は徳川家から庇護され、寛永15年から18年(1638〜41)には3代将軍徳川家光により堂宇の再建が行われ現在もその遺構として総門(寛永15年:切妻、本瓦葺、三間一戸、薬師門)、三門(寛永18年:入母屋、本瓦葺、2重楼門、三間一戸)、鐘楼(寛永18年:入母屋、本瓦葺、重層裳階付)、裏一門(高麗門)、裏二門(薬師門)が残されています。
安政2年(1855)に本堂中心付近が火災により焼失すると、安政4年(1857)に13代将軍徳川家定が本堂(入母屋、本瓦葺、桁行7間、梁間7間)、開山堂(宝形造、桟瓦葺、桁行3間、梁間3間)、大方丈(入母屋、桟瓦葺、書院造)などが再建されています。
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大樹寺の文化財
・ 大樹寺多宝塔−天文4年−国指定重要文化財
・ 絹本墨画淡彩如意輪観音図−鎌倉時代−国指定重要文化財
・ 冷泉(岡田)為恭障壁画(145枚)−安政年間−国指定重要文化財
・ 大樹寺伽藍(三門・総門・裏二門・鐘楼・大方丈)−愛知県指定文化財
・ 木造阿弥陀如来坐像−平安時代−愛知県指定文化財
・ 木造勢誉上人坐像−明応6年−愛知県指定文化財
・ 絹本著色当麻曼陀羅絵−鎌倉時代−愛知県指定文化財
・ 絹本著色25菩薩来迎図−鎌倉時代−愛知県指定文化財
・ 絹本著色山越阿弥陀如来図−鎌倉時代−愛知県指定文化財
・ 大樹寺本堂−安政4年−岡崎市指定文化財
・ 大樹寺開山堂−江戸時代前期−岡崎市指定文化財
・ 松平八代墓(8基)−室町時代−岡崎市指定文化財
・ 大樹寺のしい−岡崎市指定天然記念物
・ 木造東照権現(徳川家康)座像−正保4年−岡崎市指定文化財
・ 梵鐘−岡崎市指定文化財
・ 木造雲珠型袖附位牌(7基)−岡崎市指定文化財
・ 木造札型平頭位牌(2基)−岡崎市指定文化財
・ 黒漆嵌装舎利厨子−岡崎市指定文化財
八脚門を簡単に説明した動画
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