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犬山市(歴史)概要: 犬山市の都市的な始まりは文明元年(1469)、織田広近が木下邑に木下城を築いたのが始まりとされます。天文6年(1537)、当時の木下城の城主織田信康が居城を犬山城に移しますが永禄年間(1558〜70)、当時の城主織田信清は同族である織田信長と対立し、永禄7年(1564)には信長に攻められ犬山城は落城します。本能寺の変後は織田信雄の家臣川定成が城主となりますが天正12年(1584)、池田恒興が急襲し落城、この攻防戦が小牧・長久手の戦いの前哨戦となって豊臣秀吉と徳川家康、織田信雄連合軍との対立が深まります。秀吉の時代に入ると家臣である石川貞清が城主となり、犬山城の大改修が行なわれ現在に近い形になったとされ、その際、金山城(岐阜県可児市)を解体し用材を利用したと伝えられています。慶長5年(1600)の関が原の戦いで石川貞清は西軍に付いた為、犬山城には西軍7千7百人が終結し東軍と一触即発の緊張状態にありましたが貞清は犬山城を東軍に明け渡し、さらに本戦である関が原でも敗退し没落しました。慶長6年(1601)、犬山領は清洲領に組み込まれ松平忠吉(家康4男:52万石)の付家老である小笠原吉次が犬山城の城主になると犬山城も近代的に整備され城下町も順次計画しました。慶長12年(1607)、忠吉が死去すると清洲領は幕府に返上され吉次は増上寺で殉死、犬山領は尾張藩領となり徳川義直の付家老平岩親吉が犬山城の城主となります。親吉が死去すると一時城主が置かれませんでしたが元和3年(1617)同じく尾張藩の付家老成瀬正成が犬山に入り、以後、成瀬家が9代城主を世襲し明治維新を迎えています。
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犬山市 |
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犬山市:観光・見所 |
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