足助宿・宿場町・町並み

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写  真 備  考
足助宿(三州街道)
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【三州街道】−三州街道は中山道の塩尻宿(長野県塩尻市)から信州伊那地方を南下し、飯田城下(長野県飯田市)でやや南西に進路を変えながら南進し東海道の岡崎城下(愛知県岡崎市)に達しました。戦国時代は軍事用の道として利用され、武田信玄が上洛の途中で三州街道沿いで命を落としたと伝えられ、街道沿いには伝承や史跡が点在しています。江戸時代で参勤交代の経路として利用したのは飯田藩だけで宮田宿の本陣を宿所とし、甲州街道を経て江戸に向っています。江戸時代中期以降、物資の流通が盛んになると、太平洋から産出された海産物や塩を信州(長野県)の奥地まで運んだ事から「塩の道」、中馬と呼ばれる民間の馬を利用して届け先まで運ぶ流通が盛んになった事から「中馬街道」などと呼ばれました。

【足助宿】足助宿愛知県豊田市)は三州街道の宿場町であると同時に本多忠周が5千石で当地に配され足助陣屋を構えた事から陣屋町としても整備されました。本多家は岡崎藩本多家の分家筋で天和2年(1682)には2千石が加増され、さらに寺社奉行に就任した事を受けて3千石が加増、これにより諸侯に列し足助藩を立藩しましたが元禄2年(1689)に3千石に減封された事で7千石の交代寄合旗本として明治維新を迎えています。足助宿は岩村城下(岐阜県恵那市岩村町)とを結ぶ美濃街道と鳳来寺愛知県新城市門谷鳳来寺)とを結ぶ「ほうらいじ道」、岡崎城下とを結ぶ七里街道(足助街道)とが交わる交通の要衝だった事から多くの物資の集積場、中継所となり、三州街道沿いでは飯田城下に次ぐ繁栄を見せ大きく発展しました。明治時代には金融業(足助中馬館:旧稲橋銀行、愛知県指定有形文化財)なども進出し当地方の中心として引き続き重要視されましたが、近代交通網が発展すると山間の一地方都市として位置付けられました。その為、大きな近代化が図られず、鈴木家住宅(国指定重要文化財)や小出家住宅などの町屋建築が軒を連ねる良好な町並みを残す結果となり平成23年(2011)には田町、東町、西町、新町の4町、約21.5ヘクタールが「豊田市足助伝統的建造物群保存地区」の名称で国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

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