四間道(名古屋城・城下町)・宿場町・町並み

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写  真 備  考
四間道(名古屋城・城下町)
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【四間道】四間道は慶長15年(1610)、名古屋城を築城した際に町割された町で、当初の中心地だった清洲城の城下町から商人を移して形成されました。所謂、「清洲越し」と呼ばれるもので、天正13年(1586)11月29日に天正大地震が発生すると清洲城は大破、天正14年(1586)には当時の城主織田信雄が大改修しましたが、城下町には大規模な液状化現象が発生し大きな悩みの種となりました。江戸時代に入ると、清洲城周辺の地盤の弱さが問題視され、徳川家康の命により、新たに名古屋城の築城が西国の有力大名を中心に天下普請で行われ新たな城下町が計画されました。「清洲越し」が行われたのは慶長17年(1612)から元和2年(1616)頃で、清洲城下にあった神社3社、寺院100カ寺、町屋2千7百戸が移転したとされ、東海地方を制する一大城下町となりました。堀川は名古屋城の外堀の役割を持つ一方、物資の輸送を担った舟運の運河として徳川家康の意向により計画されたそうです。四間道に配された商人達はこの堀川を利用して各地から集められた米や味噌、塩、炭などを当地に荷下し、ここから名古屋城や城下町の各地に配送されました。その為、堀川沿いには数多くの土蔵が建てられ、各商家も繁栄しました。元禄13年(1700)の大火後に、火災の被害が大規模になったの原因の1つとなった延焼を防ぐ為に道幅を4間(約7m)に広げた事を受け何時しか四間道と呼ばれるようになっています。現在の町並みは元文年間(1736〜1740年)に改めて町割され西側の主屋、東側に土蔵群という構成に再編されています。特に伊藤家住宅(川伊藤)は享保7年(1722)に建てられたもので、現在でも主屋(本家、新座敷、南座敷)の他、敷地背後には数多くの土蔵が現存し、堀川筋商家の典型として貴重な事から愛知県指定文化財に指定されています。又、屋根に屋根神様(主に津島神社熱田神宮、秋葉神社が祭られ例祭時には幕を張り提灯が下げられ、味噌や米、御神酒などがお供えされた)と呼ばれる小社を建立している町屋建築が点在し、往時の民間信仰の名残が見られます。四間道は現在でも当時の町並みが色濃く残され昭和61年(1986)には名古屋市の街並み保存地区に指定されています。
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