有松宿(東海道)・宿場町・町並み

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有松宿(東海道)
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【有松宿】有松宿愛知県名古屋市緑区)は慶長13年(1608)、東海道の宿場町である鳴海宿と知立宿(池鯉鮒宿)の間が12キロ程離れ、その間は荒涼として不便だった為、尾張藩は周辺の集落の住民に呼びかけ集落を形成(当初は8家族、その後7家族が追加された)、その後に村として独立させ東海道の間宿となりました。有松宿は本陣や脇本陣だけでなく、庶民が泊まれる宿泊施設である旅籠も禁止された事から収入源も限定的で、農耕地も小規模だった事から、竹田庄九郎が考案した絞染(有松絞り)が有松宿の名物となり主要産業として発展していきました。竹田庄九郎は有松村の開村当時からの旧家で名古屋城築城(慶長15年:1610年〜慶長19年:1614年)の際に豊後国(現在の大分県)の出身者が着ていた豊後絞りの技法からヒントを得て、その後に独自に改良を加えて有松絞り(国の伝統工芸品)を編み出すと、尾張藩でも藩の特産品として奨励しさらなる発展を遂げました。天明元年(1781)には尾張藩が有松宿での絞り染め営業独占権を認めた事で、宿場内には多くの利益を得る者が現れ、多くの豪商を輩出し、豪勢な建物が建ち並ぶようになりました。江戸時代末期になると、周辺農村の疲弊が余りにも酷くなった事から尾張藩は独占権を解除、これにより広く絞り染めが広がったものの、有松の独自性が失われ、さらに明治維新後に近代交通網から離れた事で交通量が激減し町自体も衰微しました。しかし、その後も新たなる技術の開発(現在の絞技法は100種余)や販売経路の拡大などの努力によって全国的にも知られるようになりました。有松宿は天明4年(1784)の有松大火により多くの建物が焼失し、現在見られる多くの建物はその後に再建されたもので、屋根を瓦葺、外壁を塗屋造り、外壁の両側に袖壁やウダツを設けるなど防火や延焼、類焼しにくい工夫が施されました。現在でも小塚家住宅(江戸末期建築、名古屋市指定文化財)や竹田家住宅(江戸時代建築、名古屋市指定文化財)、中濱家住宅(明治時代中期、国登録有形文化財)、服部家住宅(江戸末期建築、愛知県指定文化財)、棚橋家住宅(明治8年建築、国登録有形文化財)など当時の町屋建築が数多く残り良好な町並みが残されている事から「名古屋市有松町並み保存地区」に指定されています。

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