松応寺概要: 天文18年(1549)、当時の領主松平広忠(徳川家康の父親)は岡崎城で家臣により刺殺、喪を秘してこの地に葬られ、尾張から戻った竹千代(後の徳川家康)は広忠の墓の前に小松一株を植えて父親の菩提を弔ったと伝えられています。永禄3年(1560)、家康は桶狭間の戦い後今川家から独立し岡崎城に戻ると隣誉月光底鈍和尚を招き一寺を建立し手植えした松が自分が応じるが如く成長していたことから松応寺と名付けました。以来、歴代徳川家が庇護し、慶長7年(1602)には家康が寺領100石を寄進し、慶長10年(1605)には家臣である三浦直正を奉行とし岡崎城主本多豊後守と西尾城主本多縫殿が協力し堂宇の造営が行われました。その後も2代将軍徳川秀忠が2度参拝に訪れ、寛永10年(1633)には3代将軍徳川家光により多くの堂宇が造営され境内が整えられました。境内には塔頭8宇が軒を連ね現在の御旗公園辺りから参道が延びていましたが、明治時代に入ると庇護者を失い急速に衰退し、昭和20年(1945)の空襲による戦災で多くの堂宇が焼失しました。当時の建物は広忠の廟所と太子堂だけで、境内と住宅街、商店街が混在する不思議な空間になっています。
松応寺の文化財
・ 松平広忠公御廟所−慶長10年−岡崎市指定史跡
・ 絹本着色十六羅漢像−元時代(中国)−岡崎市指定文化財
・ 松平広忠使用床几−室町時代−岡崎市指定文化財
・ 鎌倉彫大香合−室町時代−岡崎市指定文化財
・ 松平広忠使用青貝鞍−桃山時代−岡崎市指定文化財
・ 秋草文平蒔絵堤箱−桃山〜江戸時代初期−岡崎市指定文化財
|