創建年− | 大宝年間(701〜704年) |
祭 神− | 大己貴命 |
格 式− | 式内社(小)・三河国一宮・旧国幣小社・別表神社 |
文化財− |
田峯の銅鐸(弥生時代後期、高さ36cm、鈕高11.5cm、三遠式銅鐸、設楽町田峯出土、愛知県指定文化財)
ケヤキ(推定樹齢600年、樹高30m、幹周9.3m、「みたらいのケヤキ」と称した、愛知県指定天然記念物)
砥鹿神社奥宮の社叢(3万u、本宮山天狗の寄木:推定樹齢1千年など、愛知県指定天然記念物)
西参道石鳥居(天保13年、花崗岩製、明神鳥居、総高726cm、柱間550cm、豊川市指定文化財)
砥鹿神社の和鞍(永禄3年など、鞍5点と付属品、例大祭の流鏑馬で使用、豊川市指定文化財)
田遊祭(1月3日、里宮拝殿前、五穀豊穣を祈る予祝神事、豊川市指定無形民俗文化財)
粥占祭(旧暦1月15日、奥宮の神事、年の天候や作物の豊凶を占う神事、豊川市指定無形民俗文化財)
火舞祭(2月7日、末社八束穂神社神事、火難の有無や大小を占う神事、豊川市指定無形民俗文化財)
|
神 事− | 例祭:5月4日・田遊祭:1月3日・粥占祭:旧暦1月15日・火舞祭:2月7日 |
場 所− | 里宮:愛知県豊川市一宮町西垣内
奥宮:愛知県豊川市上長山町本宮下 |
備 考− | 砥鹿神社には次のような伝承が残されています。大宝年中(701〜704年)に文武天皇が重い病となり、病気平癒を三河国設楽郡煙厳山の山頂に住むという勝岳仙人に依頼する為に公宣卿(勅使)が派遣されました。しかし、公宣卿は本宮山の山麓付近で道に迷い困っていると砥鹿神が老人に姿を変えて出現し、童子を遣わせ煙厳山まで導かせました。公宣卿は勝岳仙人を都まで御連れして祈祷が行われると見事天皇の病気が平癒した事から、天皇は勝岳仙人と砥鹿神に感謝し、勅願により本宮山麓に宮殿を設けて砥鹿神を祭り、神官として公宣卿が遣わされたと伝えられています(公宣卿は草鹿砥氏の祖となり代々砥鹿神社の神官を務めました)。その後は嘉祥3年(850)に従五位下、仁寿元年(851)に従五位上、貞観6年(864)に正五位下、貞観12年(870)に正五位上、貞観18年(876)に従四位上に列格し平安時代中期に成立した延喜式神名帳では式内社小社として記載され、三河国では最高位にあたる為、三河国一宮として国事の祭祀を司りました。御神体である本宮山の山頂付近には磐座と思われる奇岩怪石が数多く点在し古代からの自然崇拝や山岳崇拝が信仰の祖型とされ、麓に田畑が開発されると豊川に対する信仰の念が生まれ、現在のような奥宮、里宮の信仰形態が形成されたと思われます。伝承などの経緯や社号から察すると当初は砥鹿神が祀られ、江戸時代にも砥鹿明神と呼ばれている事から信仰が続けられていたと思われますが、明治時代以降には明確に大己貴命が祀られるようになったようです? |