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東海道 |
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赤坂宿(豊川市)概要: 赤坂宿(豊川市)は比較的早く開かれた宿場町で天文23年(1554)には当時の領主今川義元が伝馬制度を定め、領内の街道が整備されました。天正19年(1591)には池田輝政が馬46疋の整備を指示し重要視されていたことが分かります。江戸時代に入ると五街道の1つ東海道の宿場町として改めて整備され、江戸日本橋から数えて36番目の宿となりました。隣の宿場町である御油宿からは僅か1.7kmと東海道中の宿場間の距離の中で最短距離とされ、その短さから当初の伝馬朱印状には赤坂宿と御油宿が1つの宿として取り扱われ、松尾芭蕉には「夏の月御油より出でて赤坂や」と詠まれています。又、吉田城下、御油宿と共に飯盛女や遊女が多く、旅人だけでなく近隣の歓楽街としても発展し「御油や赤坂吉田がなくばなんのよしみで江戸通い」や「御油や赤坂吉田がなけりゃ親に勘当うけやせぬ」などの俗謡が流行っています。天和2年(1682)からは三河国天領の行政の中心として赤坂陣屋が設置され代官屋敷や役人の役宅などが設けられました。本陣の内1軒は代々松平彦十郎家が世襲(問屋を兼任)し往時は間口17.5間、奥行28間の敷地に422畳の主屋があり式台付の玄関や上段の間など格式ある建物が求められました(宝永8年:1711年の図面によると彦十郎家の他、庄左衛門家・弥兵衛家・又左衛門家が本陣として描かれている事から本陣家は4軒あったと思われます)。
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赤坂宿
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赤坂宿:町並み
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