・九平町は平安時代に高橋庄に属し、安元2年2月の八条院領目録には「庁分御庄」として「参河国高橋庄」と記されている事から鳥羽天皇の皇女である八条院の領地だった事が窺えます。
明徳2年に発給された相国寺部聞某下知状(猿投神社文書)には「相国寺領高橋庄内猿投宮神領事」と記されており、室町時代には相国寺の領地だった事が窺えます。
高橋庄の荘司は中条氏が務め、被官だった九久平鈴木氏が当地で実務を担当したようです。
地名「九久平」の由来については不詳ですが、山や川に囲まれた険しく狭い地形を意味する「きゅうぶ」が訛ったとも云われています。
三河鈴木家は穂積姓鈴木氏の本宗家である藤白鈴木氏の支流の一族で、三河国加茂郡矢並郷を本貫として周辺の要衝には有力一族を配しています。
戦国時代には酒呑鈴木家の支配下にあり、4代当主鈴木重政は弟である康政を九久平に配しています。
康政は兄と共に徳川家に与し、武田家の侵攻に対処し、高天神城の攻防戦にも参陣、家康からは「康」の字の使用を許可され名前を「康政」に改めています。
3代鈴木政次は下総国に遷されましたが、寛永12年に再び当地に戻され、九久平、桂野、西野、川向村等合計で500石が安堵され、九久平村には陣屋が設けられています。
九久平の地は三州街道(伊那街道)の宿場町であると同時に、挙母街道や足助街道の分岐点でもあった為、交通の要衝として発展しました。
寛文年間頃に巴川舟運に発着場として整備されると、物資の集積場にもなり、巴川沿いには町並みが形成されました。
特に、太平洋から陸揚げされた海産物や塩等は舟運船に積み替えられ、岡崎から矢作川、渡会から巴川を経て当地で再び陸揚げされ、三州街道(伊那街道)を利用して信州の内陸部まで運ばれていきました。
明治時代中期以降は近代交通網の整備により地勢的な優位性が失われ、舟運も衰退した為、次第に衰微し現在は皇子の雰囲気が失われつつあります。
三州街道(伊那街道・中馬街道):宿場町・再生リスト
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