【 足助宿 】−足助宿(愛知県豊田市)は、この三州街道の宿場町で特に物資の集積地、中継地として発展し、明治時代以降には数多くの金融機関も設けられました。又、天和元年(1681)に本多忠周(本多忠義5男)が本藩である白河藩(福島県白河市:本城・白河小峰城)から5千石を分知され足助に陣屋を構え陣屋町としても整備されました。さらに忠周は丹波国に2千石が加増、天和3年(1683)に寺社奉行に就任し3千石が加増、これで合計1万石の諸侯となり足助藩が成立します。しかし、職務怠慢が祟り元禄2年(1689)に社寺奉行の職を剥奪され3千石も取り上げられ、交代寄合旗本に格下げとなり足助藩も廃藩となりました。廃藩後も足助宿の重要性は変わらず、交通の要衝として引き続き発展しましたが、明治時代後期頃になると近代交通網が整備され次第に衰微しました。現在も足助宿には良好な町屋建築が残る町並み景観が見られる事から重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
【 三州街道 】−三州街道(中馬街道・伊那街道)は信濃国と三河国を結ぶ大動脈の1つで、大名の参勤交代では利用されなかったものの(飯田藩が一部区間を利用しています)、江戸時代中期以降庶民の経済活動が活発化すると、多くの人々が利用するようになりました。特に幕府の定めた正式の街道では無かった為、伝馬制度を採用せず「中馬」と呼ばれた民間の運送制度を採用した為、煩わしい手続きが無く料金も安価だった事から飛躍的に交通量が増えました。歴史的には戦国時代に武田信玄が京都に上洛する所謂、「西上作戦」で三州街道が利用され、信玄は三河の徳川家康に対しては有利に戦局を進めたものの、念願成就する前に病死し、武田軍は甲斐の国に引き上げています。文禄2年(1593)には豊臣秀吉により改めて整備され、主要街道となりましたが、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いを制した徳川家康は中山道を主要街道とした為、三州街道は脇街道に格下げされました。
【 小出家住宅 】−小出家住宅は足助宿を代表する豪商で、現在の建物は江戸時代中期の安永4年(1775)以前に建てられたと推定されています。案内版によると「 江戸時代、中馬街道はここを通っていました。当時醸造業が足助にあった中の最も財力があった小出家は代々足助の大庄屋を勤め、町の政治・経済の実権を握っておりました。川沿いの急峻な斜面をうまく利用した家敷構えに特徴があります。 足助町文化財保護委員会 」とあります。三州街道の正面には左右の土蔵(向かって左は土造2階建、切妻、桟瓦、外壁は白漆喰仕上げ、腰壁は海鼠壁。向かって右側は土造2階建、切妻、桟瓦葺、外壁は土壁鏝押え)を設け、中心に玄関、敷地背後が一段高くなり主屋が配されています。
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