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名古屋市(歴史)概要: 名古屋城の前身である那古野城の築城は大永年間(1521〜28)、今川氏豊によって築かれたのが始まりとされます。当時の今川氏は尾張南部を制圧し、織田領との最前線となる当地が重要視されました。天文元年(1532)、織田信秀が那古野城を強襲し奪い取ると、当城を居城として尾張統一を目指します。天文4年(1535)信秀はさらに最前線の古渡城を築き居城を移すと嫡男である織田信長に那古野城を与えます。しかし、信長は弘治元年(1555)に居城を清洲城に移した為、那古野城は弘治3年(1557)以後に廃城となります。慶長12年(1607)、徳川義直が甲府藩から47万2千石で清洲に入封しますが、清洲城は水害が多く、西国の豊臣家や豊臣恩顧の大名を睨むには小規模で、外様大名の財力に負荷を与えるなどの理由から新たに名古屋城を築く計画が成されました。慶長14年(1609)、徳川家康は義直を伴い縄張りを行い、慶長15年(1610)から名古屋城の築城工事が行われました。名古屋城は所謂、天下普請で行われ前田利光や加藤清正、黒田長政など西国大名を中心とする20家が工事を携わり大きな負担となりました。慶長17年(1612)に天守閣が完成し元和2年(1616)頃までに清洲城の城下にあった有力の神社、寺院、商人達が名古屋城の城下町に移され所謂、清洲越しと呼ばれました。義直は元和5年(1619)に56万3千石、寛文11年(1671)に62万石に加増され徳川御三家筆頭の地位が確立し以後、御三家筆頭の尾張徳川家が16代続き明治維新を迎えています。初代から朝廷に近く、幕末には公武合体に尽力するなど幕政にも参加し大政奉還後には17代藩主徳川慶勝が新政府の議定となり、戊辰戦争時にも新政府側に付いています。尾張藩が新政府側として立場を鮮明にしたことから中山道や東海道周辺の諸藩がこぞって新政府側となり、新政府軍が殆ど抵抗なしに江戸にまで進軍し、大きな功績をあげています。
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名古屋市 |
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