【 有松宿 】−有松宿(愛知県名古屋市有松)は東海道の池鯉鮒宿(愛知県知立市本町)と鳴海宿(愛知県名古屋市緑区鳴海町)の間に設けられた間宿として成立した町です。有松宿は正式な宿場町では無かった為、本陣や脇本陣、旅籠などは幕府から認められませんでしたが、茶屋などの休息場が提供されました。有松宿は間宿の為に宿場での収益が見込めなかった事から、土地の代表者的存在だった竹田庄九郎が苦労の末「有松絞り」を考案し有松宿の名産として画策しました。尾張藩は諸大名との交際の際に御土産品にするなどの保護もあり「有松絞り」は全国的にも名が知られるようになり、東海道の旅人も好んで購買した事から一大産業に発展し、豊かな財力を有する商人も発生しました。江戸時代の有名作家十辺舎一九作の東海道中膝栗毛でもやじさん、きたさんが有松宿を訪れた様子が描かれ、安藤広重の東海道五十三次の鳴海の宿では間宿であるはずの有松宿を題材とするなど当時の繁栄が窺えます。現在でも有松宿には大型の町屋建築が残され、優良な町並みである事から名古屋市の街並み保存地区に指定されています。
【 東海道 】−幕府が定めた五街道の1つで、江戸日本橋から京都三条大橋まで53の宿場町が設置されました。江戸と京都を最短距離で結ぶ為、当時の日本の大動脈として多くの人々が利用し、特に西国大名の参勤交代の経路として各宿場町は大いに賑わいました。
【 棚橋家住宅 】−棚橋家住宅は有松宿の有力絞り問屋である服部家(本家大井桁屋から分家した服部孫兵衛家、屋号「井桁屋」)の住宅として明治8年(1875)に建てられたもので、間口が広く明治初期の有松宿の町屋建築の典型として貴重な建物です。構造は木造、2階部は天井を低く抑えた厨子2階建、江戸時代の町屋建築は軒の高さの制限があり平屋建てや厨子2階建てが主流でしたが、棚橋家住宅は明治時代初期だった事からその名残が見られます。建物は切妻、桟瓦葺、平入、桁行16m、梁間8.5m、外壁は白漆喰仕上げ、建築面積222u、2階開口部は虫子窓、1階は出格子戸、1階正面には下屋庇が設けられています。その後、この町屋建築は空家となりましたが昭和7年(1932)に棚橋家が買い取り、医院を開業しました。棚橋家住宅は有松宿の町並みに大きく寄与し「国土の歴史的景観に寄与しているもの」との登録基準を満たしている事から平成21年(2009)に国登録有形文化財に登録されています。
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