清須市: 清洲山王宮日吉神社

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清洲山王宮日吉神社
清洲山王宮日吉神社
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概要・歴史・観光・見所
清洲山王宮日吉神社概要: 清洲山王宮日吉神社の創建は宝亀2年(771)、当地方で流行り病が蔓延した為、素盞嗚命と大己貴命の分霊を勧請し厄災退散の祈願を行ったのが始まりと伝えられています。大同2年(807)には橘逸勢(橘奈良麻呂の孫)が社殿を造営し、神仏習合した事で山王宮と呼ばれるようになりました。中世に入ると尾張国の政治が清洲に移り当社が清洲の総鎮守、総氏神として周辺地域からも崇敬されるようになり4千坪を越える広大な境内と社領を所有し清洲三社(清洲山王宮日吉神社・御園神明社・上畠神明社)に数えられました。天正8年(1580)には当時の清洲城の城代織田信張は篤く崇敬し改めて日吉大社(滋賀県大津市坂本)の分霊(大山咋神)と摂社21社の分霊を勧請しています。当時、当社では火起請と呼ばれる境界争いで決着が着かない事象を裁判する神事が行われ、織田信長も立ち会ったとも云われています。天正12年(1584)、小牧・長久手の戦いでは当社の境内が織田信雄(信長の2男)と徳川家康の軍の野営地として利用され、兵火により多くの社殿、社宝、記録などが焼失しましたが、その後、領主である織田信雄が社殿を再建しています。又、当地の出身だった大政所(豊臣秀吉の生母)が清洲山王宮日吉神社に子受けの祈願を行い日吉丸(後の豊臣秀吉)を授かった事から後々まで崇敬し三十六歌仙の歌仙額や神宮寺の薬師堂を寄進しています。境内にある女陰石は「子産石」と飛ばれ大政所がこの石を撫で子授祈願を行い秀吉を授かったとの伝承から、現在でも子宝に御利益があるとして信仰の対象になっています。江戸時代に入ると清洲城の城主となった松平忠吉(徳川家康4男)が庇護し社殿の造営や、社領の寄進が行われ、尾張藩4代藩主徳川吉通は当社の分霊を名古屋城の城下に勧請し山王稲荷(現在の名古屋市古渡町)を創建しています。古くから神仏習合していましたが明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏教色が一掃され、社号を「日吉神社」に改め県社に列しています。祭神:大己貴命、素戔嗚命、大山咋神。
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