大鷲院(足助町)概要: 大鷲院の創建は不詳ですが当初は天台宗の寺院として開かれたのが始まりとされ、背後の「大峯新盛山」が山岳信仰の修行場として繁栄し修験道場として発展していました。山頂付近には高さ4m長さ10mの「八丈岩」と呼ばれる大岩があり信仰の対象になっていたようです。
伝承によると、昔、ある檀家で葬儀が行われていると、急に黒い雲が空を多い暴風が吹き荒れると口の裂けた化け猫が遺骸を奪おうと棺に飛び掛りました。その際、大鷲院の住職は払子を化け猫の顔に投げ付け何とか撃退に成功し、無事に葬儀を終える事が出来ました。住職が大鷲院に戻ると、飼い猫の顔が大きく膨れ上がり片目が潰れている姿を見て、この猫こそが先程の化け猫である事を悟りました。住職は化け猫に切々と説教を行うと、改心し八丈岩に足跡を残し姿を消したと伝えられています(八丈岩に化け猫が封じられたとも)。
大永年間(1521〜1526年)、心渓桂賢和尚が曹洞宗に改宗し、文禄2年(1593)の山崩れにより多くの堂宇、記録、寺宝などが消失し一時衰退しましたが慶長7年(1602)心翁英孚大和尚が再興しました。参道の大石垣は文化13年(1816)、当地方が大飢饉の際、難民救済の為に行った事業で檀家や有力者から浄財を募り、賃金の代わりに米を支給したと伝えられています。境内背後の裏山には江戸時代末期から明治時代初期に掘り込まれた磨崖仏、弘法大師88体、坂東・秩父三十三観音像60余体があり霊山として繁栄しました。山門は明治16年(1883)に建立されたもので入母屋、瓦葺、三間三戸、八脚2重楼門、扁額の「正法」は山岡鉄舟(旧幕臣で江戸無血開城の際には勝海舟の意向を伝える為、単身新政府軍の重鎮西郷隆盛と会談、幕末の三舟の1人、書の達人)の筆、上層部には十六羅漢花鳥画が描かれています。宗派:曹洞宗。本尊:釈迦如来。
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